乃木希典

中断していた「坂の上の雲」を再開した。

庶民が
「国家」
というものに参加したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突きささってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵憲法のもとに、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻覚によって国民にかならずしも福祉をのみ与えるものではなく、戦場での死をも強制するものであった。
これを譬えていえば、日本の戦国期の戦争といえば、足軽にいたるまで軍人は職業であった。その職業からのがれる自由ももっていたし、もっと巨大な自由は、自分たちの大将が無能である場合、その支配下からのがれる自由さえもっていた。このため戦国の無能な武将たちは、敵に負けるよりもさきに、その配下の将士たちがかれらの主人を見限って散ってしまうことによって自滅した。
ところが、明治維新によって誕生した近代国家はそうではない。憲法によって国民を兵士にし、そこからのがれる自由を認めず、戦場にあっては、いかに無能な指揮官が無謀な命令をくだそうとも、服従以外になかった。もし命令に反すれば抗命罪という死刑をふくむ陸軍刑法が用意されていた。国家というものが庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前にはない。
が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛ではなく、ときにはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった。

旅順総攻撃において、大本営と海軍が203高地の攻略を指示するも、乃木希典率いる第三軍(第一師団・東京、第九師団・金沢、第十一師団・善通寺から編成)は参謀長である伊地知幸介中将の指揮により旅順要塞正面突破に固執し、それを繰り返しては多大な損害を受けていた。
が、ついに第七師団・旭川の投入と同時に作戦を203高地確保に転換。
その中での、日本兵の行動・死を恐れない勇猛さを解説したものだ。


やるべきことが決まっているというのは迷うことがない分、安心感があり、心地よいことだ。
さらにその義務が国家という壮大なるプロジェクトに貢献できるとあれば、それによって死ぬことはむしろ幸せな瞬間なのかもしれない。


20世紀後半という時代に育った私達が、このような価値観を純粋に受け入れることはできないのは当然だが、時が進むにつれ、技術が進歩し生活が豊かになるにつれ、しなければならないことが減り、しても良いことの選択肢が広がっている。


さらに、それらの選択肢は一つ一つが違うようで同じようにもみえる。


例えばブログをどこでしようか選ぶとき。
gooか、livedoorか、Exciteか、Seesaaか、Amebaか、Yahooか、Doblogか、ヤプログか。
実際に使ってみないと、どこがどういうサービスを提供しているのかさっぱり分からない。
そのため、移転を何度も繰り返す人もいる。


たまたま、何かの記事で見た「はてな」を選んだが、正解だったと感じている。


しかし、実際の生活の中では、最初に選択したことが間違いだったと感じることのほうが多いはずだ。
それが簡単に進路変更できるものであれば良いが、そうでない場合は多少の妥協を受け入れながら進むしかない。


就職や仕事もそうだ。


8月11日のWBS「しごと考」で「はてな」の社長、近藤淳也氏が面白い事を言っていた。

昔は「大企業に入ってきちんと稼いで」と言われた
今は「何をしてもいいよ」と言われる
「明日から僕はこれをやります」
と言える人はほとんどいない
「見つけるという試練を与えられ、見つけられない人がいるのは仕方がない」

マクロな価値観が国家から個人や家庭に移った現在でも、こういったミクロな価値観が変化しては人を変えていく。


就職活動をしていると、こういう言葉をよく聞いた。
「親が自営業している人はいいよな」


就職が決っていない人にとっては、家業を継ぐという選択肢が残されていることは何物にも変えがたい安心感なのかもしれない。


しかし、両親や祖父母がどんな仕事をしていたのか、どんな人生を歩んできたのか、を知ることは、数ある選択肢を選ぶ際に大きなきっかけを与えてくれるかもしれない。


私は、23年間おじいさんの名前を知らなかった。
というより、気に留める機会がなかった。
20年前、私が3歳のときに亡くなった父方のおじいさんには、手紙を書く機会もなく、親父やおばあさんが話をしてくれるわけでもなく、盆や墓参りでも戒名に目が行くだけで、ただ親父の実家に飾ってある写真だけが唯一のイメージだった。
いや、おそらくは教えてもらったことはあっても、その名前が深く印象に残らなかったためだろう。


しかし、いま「坂の上の雲」を読んでいる途中におじいさんの名前を再び聞いて、私は体中に戦慄が走った。




乃木雄


という。


日露戦争における第三軍司令官、乃木希典からとった名前だそうだ。
その乃木雄じいさんは、戦前は鉄道輸送部隊として中支(上海、蘇州あたり)に行き、戦後は同和鉱業片上鉄道の職員として、後年は片上駅の駅長として勤務していたという。


また、今も元気な母方のおじいさんは、戦前は海上輸送部隊として輸送船に乗り、シンガポールなどの上陸作戦に就き、戦後は造船会社で漁船を作っていたという。


そして親父は工場の生産マシンの制御盤を作っている。


自分は就職活動で営業や企画営業、商品開発や商品企画を第一希望としてきたが、結局内定が決まったのは独立系SI企業のSE職だけだった。


営業という前線部隊や、新しいものの開発や生産部門が正常に機能するために、それらをサポートするシステムを担うもの。


自分にその適正があるとは思えないが、その系譜の上に自らが存在するならば、そこが覚悟の価値を決める場所なのかもしれない。